自分の経験をもとに発言する教育評論家とは違って、経済学の理論や手法を用いて教育を分析するのが教育経済学です。そして、世の中で信じられている教育法の多くが、実は科学的根拠がないことを指摘しています。 「褒めること」「子どもへの投資」といったミクロ的教育経済学、「教育政策」といったマクロ的教育経済学に述べています。 ●子どもは「努力」したことのみ褒める 「褒め育て」は、子どもの自尊心を高める育児法として多くの人から支持されています。ただ、自尊心の高い子どもは学習意欲が高く、反社会的行為におよぶことも少ないと信じられているからです。本当だろうか?学力の高い子どもだから自尊心が高くなっている可能性もあります。むしろ無暗に子どもをほめることは逆効果だと著者は注意しています。悪い成績を取った学生に自尊心を高めるような介入を行うと、反省する機会を奪い、根拠のない自信を持ったナルシストに育ててしまいかねないです。 「ご褒美」については、けっして悪いことではないです。今ちゃんと勉強しておくことが、子どもの将来になることはたしかなですが、人間には遠い将来のことより、目先の利益のほうが大きく見えてしまう性質があります。「目の前ににんじん」をぶらさげて勉強するように仕向けることは、この性質を利用したものなのだと言えます。 また、「ご褒美」の方法について、「本を読む」「宿題をする」といったインプットに対して、褒めることは重要だと著者は強く主張しています。インプットとは、自主的に取り組んだことに対して、応援する、褒めるといった意味になります。何かやれば、それに対して、反応してあげるということは、子どものやる気を引き出すということです。 では、「子どもを勉強させるために、ご褒美で釣ってはいけないの?」「子どもはほめて育てるべきなの?」・・・・・教育評論家ならいずれも「〇」と答えます。しかし、著者はいずれも「×」と答えます。 アメリカで約3万6000人の子どもを対象に「テストでよい点をとればご褒美=アウトプット」と「本を読んだらご褒美=インプット」ではどちらがより効果的か?という実験を行いました。褒め方を2つのタイプに分けて実施しました。その後、学力テストを実施し、その結果、「本を読んだらご褒美=インプット」、つまり、子どもの「努力」に対してほめてあげた子が良い結果でした。データに基づいてなら、著者は「〇」の方法を導いたので、『子どもは「努力」したことのみ褒める』と言う答えとなります。 米コロンビア大学の実験では、もともとの能力(=頭のよさ)をほめると、子どもは意欲を失って成績が低下し、一方のグループに対しては努力したことをほめたところ、成績が伸びました。後者のほうが粘り強く、難しいことにも挑戦しようとする子どもに育つことが明らかになっています。 所感として、褒め方に種類があり、褒め方でよくも悪くもなるということです。確かに、子どもでも、大人でも、自分がやりたいということ、やったことに対して、褒めてもらったほうが、自主性、自制心、やり抜く力など、開花できると思います。 ◆『もっとも収益率が高い教育投資は「幼児教育」、「非認知能力」教育は重要性を発見 環境で子どもの学力はほぼ説明がついてしまう「教育格差」はだれもが感じることだと思います。親が子どもに勉強してほしいと願うのは将来の収入を考えてのことです。事実、高卒と大卒では生涯収入に1億円もの差があると言われています。これを経済学的に捉えると、教育は株や債券を買う以上に収益率の高い「投資」として解釈できます。 そのために親が負担する教育費は、幼稚園から大学まですべて国公立の場合で約1000万円、すべて私立の場合は2300万円になります。一般的に年齢が上がるほど教育にお金と時間をかけるべきだと考えられていますが、投資の視点で考えた場合、もっとも収益率が高いのは、実は幼児教育です。 手厚い幼児教育を行い、長期間にわたってその後の人生を追ったペリー幼稚園プログラムの実験結果では、小学校入学時点のIQが高かっただけでなく、その後の学歴も高く、経済的にも安定し、反社会的な行為に及ぶ確率も低いことが分かっています。また、興味深いことは、この幼児教育では、「非認知能力」を意識した教育を取り組んでいました。IQや学力テストで計測されるのが「認知能力」で、「非認知能力」は「自制心」や「やり抜く力」など人間の気質や性格的な特徴を指します。目に見えづらいものですが、将来の収入や学歴に大きく影響するのは、この「非認知能力」のほうです。そう考えたとき、学校とは単に勉強する場所ではなく、「非認知能力」を培う場所だと再認識すべきだと付け加えられています。 所感として、親の経済力と子どもへの教育投資は、学力格差が生じることは、改めて、認識させられました。 しかし、日本の社会は、「非認知能力」がない子が増えているのも事実です。実際、入門してくる子、仕事でインターンの大学生・大学院生を通して、「非認知能力」の低さを感じています。その背景には、塾や進学塾などの経済活動当事者の洗脳される親子がレガシーな偏った教育や学歴社会という小さい枠組みから抜け出せないことだと感じます。 塾や進学教室は、「認知能力」であり、「非認知能力」を高めるのに適した活動とはいいがたいです。例えば、社会教育であり、揚心館のような空手道場やキックボクシングジムの活動を通して、「非認知能力」を開花させることはできると思います。AIでカバーできない部分は、「非認知能力」は「自制心」や「やり抜く力」など人間の気質や性格的を鍛えることは重要だと考えられないでしょうか。本来は、このバランスを持つべきは、学校教育であるはずですが、一社会人としては、年々、子どもが社会人になる子をみていると、「非認知能力」がある子とない子が極端に分かれますので、その前の学校教育が崩壊しているとしか思えないです。 ●根拠のない思い込みではなく、根拠が明らかな教育政策を! 日本の教育制度に欠けている視点は、実験データをもとに費用対効果で考えるのが教育経済学の視点です。たとえば少人数学級が学力向上に良いとされているが、実は他の政策と比較すると費用対効果は低いです。 それよりも教員の「質」を高めたほうが費用対効果は高いです。しかし、そのためには、教員の給与アップ、教員研修ということになりがちです。もっとシンプルな方法があります。もともと能力の高い人を採用することです。これを阻んでいるのが教員免許制度、参入障壁をなくし、他の職業で活躍してきた人が教員に転職できるようにすべきだと著者は提言しています。 所感として、全体的に学校という組織は、大企業や官僚組織のように、偏った組織だと感じます。だとすれば、外部の社会教育ともっとうまくやれる仕組みをつくるべきだと思いました。そして、学校教育に、企業人、専門職の人が、経験や発想をもってくろことで、変化させることができると思いますが、そう簡単ではないことも感じます。
最後に、先生に教育評論家はダメと言われていましたが、私がそうなってしまいました。
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