継続は力なり、能動的な生き方を・・・
戦後の高度経済成長から教育の方向は変わったとは思えない。生徒に話をし聞いていると、教科指導の中身の変化は激動ですが、精神的な部分や受け身の教育は相変わらずのようです。集団生活を重視し、 文部科学省が定めた学習指導要領に基づいて、受け身の教育を受ける。そこで、「生きる力?」と言われても、違和感を持つのは、私だけでしょうか。 道場では、生徒に「疑問は?」「何か聞きたいことは?」と突然尋ねたとします。大人も、子供も、言葉に詰まります。問題意識がないわけではないことはわかっています。受け身が普通なんです。自分で考え、自分で物事をつかむということをしないから、すぐに、出てこないわけです。 生徒のなかには、空手道部を作ると意気揚々となっていましたが、学校の先生の反対が多くて、ダメでした。学校の問題もありますが、生徒にも問題があります。私自身、高校時代、体育科の先生たちの協力を得て、空手道部を設立することを考えました。協力してくれると思いきや、危険、心配など大反対されました。体育科が反対するのであれば、他の先生たちも、協力をしてくれないです。都立高校の空手道部の実態、ボクシング部の実態、危険性が少ないデータなど、全部準備をしました。その後、体育科へアタック、改めてだめでしたので、他の先生たちへアプローチも継続的にしました。意外にも、英語科の先生たちに承諾してもらい、顧問・副顧問とも、英語科の先生が引き受けていただき、空手道部を設立へとつながりました。考えて、行動をして、ダメなら、また、次の手段を考える。なんで、こんなことができないのでしょうか。 大学時代は、帰国子女の友達が多く、いっしょに大学生活をしていて、多くの違和感がありました。それは、主張が強いこと。なんか意味不明なやる気。わがままな感じ・・。世界の教育は、身近から自分を発信する教育を受けており、考える力や行動を身につけています。 主張が強いこと、なんか意味不明なやる気、わがままな感じ・・が良い訳ではないです。やっぱり自分の強いものがあって、表現できるのとできないとの重みがないです。 帰国子女のある友達は、語学は武器ではないと常々言っていました。今だからわかる気がします。コミュニケーション能力が重要ですが、もっとプラスアルファの強みを持つことは、大切です。それは、小さいときから鍛えていたほうが良いです。 学校教育は、得意な事をつくる教育ではないことが残念です。せっかく幼稚園、小学校で始めたことを、中学校や高校で辞めてしまう人が多いです。 なぜか、中学校や高校は、学校生活重視になります。すべてが悪いことではないですが、社会教育などのかかわりは、間違いなく、いろいろな世代の人と交流ができ、社会性を鍛えることができるので、徳なのですが、中学・高校というカプセルは、日本独特な小さい社会をつくり、とんがった人をつぶす感じを受けます。 だから言いたい。何かを継続してきたという自信や専門性を鍛えることは、自信や相手の信用を勝ち取れる手段になります。得意なこと、1つのことをやり通していたことが、万人受けはしないかもしれませんが、しっかりと物事を見ている人は評価してくれていますし、チャンスのきっかけになります。 年齢を重ねていくと、学歴や点数で勝ち残る人は、年を取ると、その違いに気づいていると思います。次のチャンスが厳しくなります。自分が能動的に行動する力が身についていない場合、どうしてよいかわからなくなり、その習慣がない人は、他の会社や組織で認めてもらえないことに気づきます。いや、気づいていないかもしれません。相手にされていないわけですから。こうならないためにも、高度経済成長の終身雇用の神話ではなく、もっと、人生を自分で開拓するための持久力を小さいときから鍛えるべきです。 この数年、超一流と言われる東京大学で変化がでています。偏差値重視の学習、暗記学習に重点、ただ、超一流は思考能力も必要ですが、その結果、官僚、一流大企業への就職を目指す。しかし、東大生の官僚離れ、一流企業ではなく、ベンチャー企業への就職を選択、ベンチャー企業を起業することを東京大学が推奨し、自分の可能性を試そうとする東大生が増えてきていると感じます。力があるものは、安定やステイタスを目指すのではなく、チャレンジを選ぶ時代へと変わってきております。 私は、ベンチャー企業を始めるべきとは言ってはいません。世の中で、時代にのった生き方をするのであれば、自分のやりたいことを考え、それを表現できる、そして、実行できる。そのような教育があるべきではないかと考えます。それが、ベンチャー企業ではなくても、どんな組織に所属をした場合でも自分の可能性を高めるために、志、行動、結果といったような習慣はすぐに芽生えないです。それは、何かしらの達成感をもっと中長期でできるものをつくるべきではないでしょうか。 揚心館では、不足したものを補える場であり、将来を能動的に生きるための1つの場でありたいと思っております。
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