空手の型「平安」の歴史
空手の型「平安」の成り立ち
体育的な要素が強かった「平安」
本部朝基先生が晩年の糸洲先生に問いただしたところ、「その頃とは型は多少違つて居るが、今では学生のやつたあの通りの型に決定して居る。名称もみなが平安(ピンアン)がよいといふから、若い者達の意見通りにそうしたのだ」と答えたという。
糸洲安恒先生の初期弟子の一人である本部朝基先生によれば、もともと「ピンアン」は「チャンナン」と呼ばれて挙動も少し違っていた
本部朝基先生(明治3年生)が糸洲先生に師事したのは12歳(数え年)からであるから、チャンナンは明治10年代にはすでに存在していた。また、ピンアンの名称は糸洲先生が当時唐手師範をつとめていた沖縄県立旧第一中学校(現・首里高校)か沖縄県師範学校の生徒による発案を糸洲先生が採用したことになる。
ピンアンは五段からなり、動作は主に公相君(クーサンクー)など旧来の型から借用して構成
沖縄県の学校体育に採用され、爆発的に広まり、首里手系各流派・本州空手の基本型となった
本部流の『白熊』の型はピンアンに似ていることから、ピンアンの原型・チャンナンではないかと推測する研究者が多い
沖縄唐手・師範学校の先生たちは「平安」に興味なし
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