幕末維新のすべてを見聞し、明治維新以降、自由な隠居の身で好きなことを語っていました。その語りを記載したものは『氷川清話』『海舟座談』です。知れば知るほど、人間としての迫力を感じます。実際、勝海舟を斬りにいった坂本龍馬は、勝海舟の広い見識と、卓越した思考に目を見開かされ、その場で入門を願い出ることになりました。幕臣ながら、『江戸無血開城』なんかは結果論から見れば歴史の真実ですが、その決断に導いた勝海舟の時世を読める知恵と行動パワーはなんとも迫力があります。もし、現代人が考える武士道を考えるなら、勝海舟を研究するべきだと言いたい!
父!勝小吉の江戸っ子と大胆な性格
勝海舟の父は、貧乏旗本勝家の婿養子。特に要職についていなかったので、用心棒、刀の目利きなど、いろいろな仕事をしながら、生計を成り立たせていました。勝海舟の父のところには、大勢の仲間が訪ねてくるような人望が厚い人でした。この性格を受け継いだ勝海舟は、だれにも屈しない自由奔放な性格になれたのだろうと推測できます。
ユニークな剣術の先生との出会い
16歳のときに島田虎之介の弟子となっています。島田虎之介は、男谷信友、大石進とならび幕末の三剣士といわれました。勝海舟は、剣術・禅を学び直心影流剣術島田派の免許皆伝となります。
この島田虎之介は、現代武道の一人者と言っても過言ではないです。島田虎之介は少年時代から剣術に没頭し、禅を学び、柔術を学び、自分の剣の道を開いた人です。島田虎之介の残した言葉に、剣と心の在り方について述べています。
「剣とは心である。心が正しくなければ、剣もまた正しくならない(其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ)」
勝海舟が、島田虎之介に学んだからこそ、哲学・倫理・道徳のようなものが芽生え、のちの活動に生かしてきたと考えられます。
文武両道と私塾
勝海舟は、27歳で蘭学塾を開きました。それも、蘭学を独学だというところが凄い。世界を知り、世界を学ぶことによって、勝海舟は「海防意見書」を幕府に提出しました。
ペリー来航を目のあたりにして、身分を問わない有用な人材の登用や軍艦の建造を説きました。これで、31歳のとき『目付海防掛』、32歳のとき『長崎の海軍伝習所』の生徒、37歳のとき初の太平洋横断となる咸臨丸の艦長として、サンフランシスコに出航しました。
剣術の極意を外交で使う!
『心は明鏡止水のごとし、といふ事は、若い時に習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。かういふ風に応接して、かういふ風に切り抜けようなど、あらかじめ見込みを立てゝおくのが、世間の風だけれども、これが一番悪いヨ。おれなどは、何にも考へたり目論見たりすることはせぬ。』(勝海舟 「氷川清話」)
知行一致の見本です!
自分の価値を知り、自分の価値の変動を楽しむ余裕がある
「おれは常に世の中には道といふものがあると思って、楽しんでいた。また一事を断行している中途でおれが死んだら、だれかおれに代るものかといふことも、ずいぶん心配ではあつたけれども、そんな事はいつさい構わず、おれはただ行ふべきことを行はうと大決心をして、自分で自分を殺すやうな事さへなければ、それでよいと確信していたのサ。おれなどは生来人がわるいから、ちゃんと世間の相場を踏んで居るヨ。上がった相場も、いつかは下がる時があるし、下がった相場も、いつかは上がる時があるものサ。 その上り下りの時間も、長くて十年はかからないヨ。それだから、自分の相場が下落したと見たら、じつと屈んで居れば、しばらくするとまた上がって来るものだ。大奸物大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳様だからノー。」(勝海舟 「氷川清話」)
勝海舟の武士道の極意!
『忠義の士といふものがあつて、国をつぶすのだ。己のやふな、大不忠、大不義のものがなければならぬ。』(勝海舟 「海舟座談」)
ともあれ、奥深い!勝海舟の自由奔放な性格、文武から得た知恵と行動力、世界と日本の状況を大局から判断できる知識があったからこそ、江戸城を無血開城し、徳川政権の道を完全に幕切れさせる選択を実行しました。明治維新となり、元・幕臣としては、徳川家の汚名返上に向けて影で動き、実現させています。
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