武を極めたものは人格者(リーダーシップ、柔軟性、思いやりなどを持った優れた性格を持っている人)だと思われがちです。確かに、何かを切り開くためには、人格者であるほうが優位に働くことが多々あります。一方、強いこだわり、ぶれない、目的の達成以外に興味がない、並外れた努力や行動がある・・・結果、物事を切り開き、成し遂げます。武芸者は、表が人格者だとすれば、裏は狂気です。
なぜ、このことに触れることにしたのか?表面的なところだけで勝手に、先生や師範と言われる人へ人物像を含め、理想像を作り上げます。ただ、「こだわり」の領域に触れると引いてしまい、不快感・嫌な気持ちにさせてしまうことがあります。ギャップは、狂気の域に達してないからです。
良いとか、悪いとかではなく、強くなる、リーダーシップ、実力主義の世界に身を置くことを考える人は、たりないものを考えるきっかけは簡単に言えば努力、しっかりした言い方をすれば、狂気的ストイックさを持つ努力家になることです。また、理想像を描いている人は、理想像とともに反面の顔があるんだなと言うことを知ってほしいです。
中国の思想のなかで、陰(いん)と陽(よう)の存在を説いています。それらは、互いに対立する属性を持った二つの気があると言われ、まさに、何かを極めるということはこの2つの面を必ず持ち合わせています。狂気の域に達した「こだわり」の人!二天一流・宗家・宮本武蔵明を紹介します。
父への憎悪!戦いで勝つ以外のこだわり
13歳から宮本武蔵は、勝負で勝つことにこだわり、勝つための手段を選ばない人生を送ってきました。佐々木小次郎との巌流島の戦いを機に、生き方を見直していきました。映画やドラマでの「宮本武蔵」は、激しく剣術で相手を打ち負かしていく、勝負の鬼です。冷静に考えると、礼儀、技法、すべて関係がなく、勝てるのでれば手段を選ばないことに強い狂気を感じます。
「戦いのこだわり」と「巌流島の戦い後、心の変化」がなければ、五輪書は完成されてなかった。「巌流島の戦い後、心の変化」とは、自分の生き方を見直す機会があった時期、つまり、戦いに明け暮れていた後、「その後の武蔵」にあります。
その後の武蔵・その1
巌流島の戦いを機に、生き方を見直し、相手を切り殺すという戦いがなくなってきました。各地の各地の寺院をまわり、地元・宮本村に戻った折には、今までの戦いで宮本武蔵が勝負とは言えども、殺害をした剣士への石塔を立てています。
その後の武蔵・その2
武者修行を続けるなか、尾張藩の剣術兵法指南役のポジションが舞い込みます。尾張藩主・徳川義直の御前で、尾張藩の若い剣士を次々と倒していきます。尾張藩主・徳川義直は、宮本武蔵の剣術のすごさを絶賛する一方、武蔵の剣を学ぶことは難しいことを説明していた。偏屈な性格で、人格者が持つ剣ではないことを否定されたそうです。落胆する一方、武蔵が足りないものを理解したときだと言われています。
実は、尾張藩主・徳川義直は、剣術兵法指南である柳生兵庫助利厳から「かの武蔵の兵法は、他人には教えられない」「武蔵の兵法は技術体系ではなく多分に哲学である。武蔵の強さは、彼固有の精気を用いる」と御前試合の前に助言を受けていました。
その後の武蔵・その3
島原の乱に、小倉藩の一員としていくさに参戦しています。関ケ原の戦い、大阪の陣における武士と武士の間のいきさつとは違うものを感じた戦いでした。勝負に勝つことが目的ではなく、キリスト信者が参加しないことへのこだわりです。その後、足腰も弱り、戦いの場から去ることを手紙で宣言しています。
その後の武蔵・その4
島原の乱の後、熊本藩にはいるときは、禄へのこだわりがなく「思われるまま」と言いました。それまでの武蔵は、剣術兵法指南役と禄にこだわっていました。
そして、熊本藩が最後の地として、五輪書を書きあげました。
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