フェザー級で全日本王者となり、ライト級では世界王者にまで上り詰められた長江国政先生。第一線を退かれた後も後進の育成に力を注がれ、K-1にも選手を参戦させるなど、長年にわたり格闘技界で幅広く活躍されました。
勇気道から、新空手の時代へ。
新空手の前身である勇気道の時代、自顕会や野崎会館も加盟道場として活動していました。新空手へと移り変わる頃、長江国政先生というレジェンドの存在、そして先生が育てられた弟子たちの強さは、まさに圧倒的なものでした。
やがて新空手が、全日本キックボクシング連盟のプロキックボクシングへの登竜門として機能するようになるなか、MA日本キックボクシング連盟に所属していた治政館は、次第に距離を置くようになりました。
その頃、野崎会館も全日本キックボクシング連盟からMA日本キックボクシング連盟へと活動の場を移しました。当時のMA日本キックボクシング連盟には、東金ジム派、士道館派、目黒ジム、治政館と、それぞれに強い流れと個性を持つ道場がありました。そのなかで野崎会館は、目黒ジムや治政館との相性がよく、長江先生にはさまざまな面でお世話になりました。
三郷のジムで ―― 同志として。
初めてお会いした頃、先生は三郷駅から少し離れた場所にある二階の一角でジムを開かれていました。野崎会館の空手着を着て伺い、いろいろとご指導をいただいたことを、今でも鮮明に覚えています。
野崎会館のプロキックボクシング会長という立場もあり、治政館の生徒として所属するというよりは、同じ志を持つ同志として、また格闘技界の後輩として、長江先生には温かく迎え入れていただき、親身に面倒を見ていただきました。
日本拳法と、松濤館実戦空手の交わり。
日本拳法をベースとする長江先生の格闘技と、松濤館実戦空手を基盤とする野崎会館には、多くの共通する部分がありました。パンチを打つための身体のつくり方、腸蹴り、前蹴りなど、武道格闘技ならではの技術や考え方について、長江先生から数多くのご指導をいただきました。先生のご指導を通じて、自分自身も多くの発見をさせていただきました。
MA日本キックボクシング連盟、日本キックボクシング協会、新日本キックボクシング協会と、団体や時代が移り変わるなかでも、長江先生の道場と共に活動させていただく機会がありました。
多くのチャンピオンを、世に送り出して。
格闘技界には大きく盛り上がる時代もあれば、苦しい時代もありました。そのようななかで長江先生は、多くの選手を育て、多くのチャンピオンを世に送り出されました。
武田幸三選手が、本場ムエタイ史上4人目となる外国人王者に輝いた時、長江先生が「地面が揺れた」と興奮して話されていた姿を、今でも忘れることができません。選手の勝利を、まるでご自身のこと以上に喜ばれる先生でした。
一方で、選手が引退したり、道場を離れたりする時には、「俺のやり方が悪かったかな」と、ご自身を責めるように寂しそうに話されることもありました。その言葉からは、選手一人ひとりに対して、どれほど深い責任と愛情を持って向き合っておられたかが伝わってきました。
選手の勝利を、まるでご自身のこと以上に喜ばれる先生でした。
石鹸の匂いと、ファミリーレストランの夜。
野崎会館の時代から、揚心館となった後に至るまで、長江先生はいつでも変わらず出稽古を受け入れてくださいました。練習も共に行わせていただき、終わると先生はシャワーを浴びてこられ、石鹸のよい匂いをぶんぶんさせながら、近くのファミリーレストランなどへ連れて行ってくださいました。
そこで伺ったのは、武道や格闘技、試合の話だけではありません。道場や組織の運営について相談に乗っていただき、必要な時には手伝うという話まで、先生は率直に、そして親身になって話してくださいました。
治政館には、武道界・格闘技界の多くの先生方が集われていました。長江先生とのご縁を通じて共に練習し、食事をしながら数多くのお話を伺い、さまざまな先生方と交流させていただいたことは、私たちにとってかけがえのない財産です。
長江国政先生のご功績に、心より敬意と感謝を申し上げます。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
