自顕会の始まりは、大きな道場からではありませんでした。

長友克三が経営していた幼稚園の屋上にプレハブを建て、そこを稽古場としてスタートしたのが、自顕会の草創期です。そこには、松濤館岡野派の伝統空手を守りながら、その技が実戦の場でも通用することを証明しようとする、長友克三の強い思いがありました。

その草創期から長友克三のもとで学んだ初期の弟子の一人が、野﨑誠です。野﨑誠は、自顕会がまだ幼稚園屋上のプレハブ道場で稽古をしていた時代からの門下生であり、長友克三の空手を間近で学んだ人物でした。後年になって関わった弟子ではなく、自顕会が形づくられていく最初期から、その空気を知る存在だったのです。

幼稚園四階のリングへ ── 実戦への挑戦。

自顕会設立から約二年後、道場は大きな転機を迎えます。幼稚園の四階にリングを設置し、本格的にプロキックボクシングの世界へ参戦する体制を整えたのです。

これは、単にキックボクシングを始めたという話ではありません。長友克三にとって、それは松濤館岡野派の伝統空手が、リングという実戦の場でも通用することを証明する挑戦でした。

当時の自顕会には、プロキックボクシングのリングで勝つことを目指す選手たちが集まっていました。彼らの多くは、試合で勝つための技術、体力、間合い、打撃、戦術を重視していました。そのため、伝統空手の形そのものに強くこだわる者は、必ずしも多くなかったのです。

野﨑誠 ── 形と実戦をつないだ者。

しかし、その中で野﨑誠の存在は異なっていました。野崎は、キックボクシングの実戦を経験し、さらに極真空手の全日本大会にも出場しながら、同時に松濤館岡野派の伝統空手の形を主体に学び続けたのです。リングで戦うだけではなく、長友克三が受け継いだ空手の形、身体操作、間合い、精神性を大切にしました。

つまり、野﨑誠は、単に実戦で戦う選手ではありませんでした。長友克三のもとで、松濤館岡野派の伝統空手を学び、その形を守りながら、同時に実戦の世界にも身を置いた人物だったのです。

実戦で戦う選手でありながら、長友克三が受け継いだ松濤館岡野派の伝統空手を、形として学び、守り、伝承した。

切磋琢磨の時代 ── 鈴木勝幸との関係。

自顕会の実戦空手を語るうえで、鈴木勝幸、後の佐々木勝幸の存在も欠かすことはできません。自顕会時代には鈴木勝幸として知られていましたが、後に佐々木姓となり、征徳会を立ち上げる時点では佐々木勝幸として活動しています。

鈴木勝幸、後の佐々木勝幸は、野﨑誠の先輩にあたる人物でした。技の研究に熱心で、新しい技を考えると、野崎を相手に試すこともあったといいます。二人の間には、先輩・後輩という関係でありながら、互いに技を磨き合う切磋琢磨の時代がありました。

この二人の関係は、自顕会が単にプロキックボクシングの選手を育てる場であっただけではなく、実戦の中で技を研究し、空手の身体操作をリングの世界へ応用しようとしていた道場であったことを示しています。

相模ジムを支えた者たち。

相模ジムの流れには、大貫忍、小池明といった日本ランカーもいました。大貫忍は後に相模南ジムを設立し、小池明もまた、プロのリングで実績を残した選手です。彼らは、それぞれの立場でプロキックボクシングの世界に挑み、自顕会の実戦性を外の世界へ示していきました。

社会人として格闘技に関わり続けた田畑靖男も、重要な人物です。田畑は後に、K-1立ち上げ時のアドバイザーやレフリーとしても活躍し、選手としてだけでなく、格闘技界を支える立場でも存在感を示しました。

自顕会には、社会人として活動しながら格闘技と向き合った田畑靖男、大貫忍、小池明がいました。一方で、学生時代からプロの世界に身を置いた佐々木勝幸、野﨑誠がいました。それぞれが異なる立場で格闘技に関わり、自顕会の実戦空手を形づくっていったのです。

唯一の首席師範として。

彼らの多くは、プロのリングで勝つことを主眼に置いていました。試合で勝つための技術、間合い、打撃、体力、戦術を磨くことが中心であり、伝統空手の形そのものを深く継承することを第一にしていたわけではありませんでした。

その中で、野﨑誠は、実戦で戦う選手でありながら、長友克三が受け継いだ松濤館岡野派の伝統空手を、形として学び、守り、伝承した人物でした。だからこそ、野﨑誠は単なるプロ格闘技の選手ではありません。自顕会の草創期から長友克三に学び、伝統空手と実戦空手の両方を体現した人物です。そして後に、長友克三から唯一の首席師範として認められました

幼稚園屋上のプレハブ道場から始まった自顕会。その始まりの時代から長友克三のもとにいた人物。そして、伝統空手の形と実戦の両方を受け継いだ人物 ―― それが、野﨑誠です。